お気に入りの喫茶店がある。年がら年中、壁に「元日」という書が貼られている喫茶店だ。めでたい。その日のコーヒーの味や水の冷たさ、タマゴサンドのマヨネーズ加減などどうでも良いくらいにめでたい。喫茶店の主人の孫が学校の授業で書いたのだろうか。色画用紙の台紙、墨が乾いてヨレた半紙、懐かしさを誘うとかよりも、めでたい。余白などいらないと言わんばかりのデカ太さで書かれた「元日」、文字として頭に処理させず象形として眼に訴えてくる「元日」、煤けた色画用紙に黄ばんだ半紙から昇る朝日の様な「元日」。めでたい。365日、水曜を除けば朝も昼も夜も変わらぬめでたさで迎えてくれる喫茶店。
とはいえこの「元日」の文字をうっとり眺めながらコーヒーを飲むわけでない。店に入って席に座る視界の端に映るだけでいい。ずっと見続けていたら眼が潰れてしまう。浴びるだけでいいのだ。
いつも通りその喫茶店に入りいつもの席に座ってコーヒーとタマゴサンドを頼む。落ち着かない、というよりめでたくない。「元日」が視界の端にない。ぐるりと店内を見回しても見当たらない。はがして捨ててしまったのだろうか。
主人が来た時にでも尋ねようか。悩ましい。この「元日」を書いたであろう孫の話に広がってしまったらどうしよう。そこまでは知りたくない。人と話すのは億劫だし、あのめでたさに具体的な人格はいらない。象徴めでたさとして、ただあって欲しい。
これ以上辺りを見回せば何かしらの用がある奴だと主人に気取られる。話しかけられてしまう。見つけたい、尋ねたい、話したくない。三すくまない欲望、話したくない1強に他の二つは破れ、薄いコーヒーとべちゃついたタマゴサンドを食べ、ほのぬるい水で口を仕上げて喫茶店を後にした。